ブログ記事で、とても気に入ったものがあったので、文末に引用を載せておく。自分が忘れそうになった時のためにも。
頭を休ませる、頭の中をからっぽにして、ぼーっと過ごすことはとても大事なことだと思う。そういう時間を無理にでも作った方がいい。
仕事量が多すぎれば、こなしていくだけで疲弊する。それでは面白くない。どう過ごしても同じ時間なのだったら、仕事の中に「面白さ」を見つけたいと思う。
「この仕事のやり方は適切か?どうすればもっと短い時間で、もっと少ない人数でできるようになるか?あるいは、この仕事がそもそも必要な理由は何か?やり方を変えればこの仕事そのものが不要になるのではないか?」そういう発想というか、アイデアが浮かんでくる。
そして残念ながら、そういうアイデアは、会議中には出てこない。忙しい仕事の合間、ぼんやりしている時や休憩している時、頭の中から邪魔者を追い出した時に思いつくことが多い。
スマートフォンやPCから次々と溢れ出てくる情報に目を奪われるあまり、頭の中がいっぱいになってはいないだろうか。
ソーシャルメディアは使い方が非常に難しい。使い方を間違えると、クリエイティブな発想ができなくなっていく気がする。
そんなことを、この記事を読んで考えた。
「クリーム・パンとコーヒーを買って海辺のベンチに降りていってぼんやり海を眺めながら過ごす時間を持つこと」がとても贅沢に思える時代に生きていることに、今更ながら気づかされた。
引用開始:
時間というものは一時間あったら50分しか使ってはいけないものだ、とわしは子供の時おそわった。
どんなに根を詰めても10分は休まないとな。
朝の8時から起きて一日を過ごせば、午後8時にはほぼ完全な休息に入らなければ人間は人間でなくなってしまう。
10歳以下の子供なら午後8時はもうベッドに入っている時間である。
眠るためでもあるが、日常とは切り離された時間のなかで、いろいろなことを考えるためです。
日本のひとは時間を隙間なく埋めてしまうのが大好きなようにみえる。
「ぎっちりした時間」が出来上がると、ちょっと嬉しそうだ。
逆に午後4時から午後7時まで「なにもない空白」な時間があると、とても不安になったりしそうである。
この3時間を、どうやってすごせばよいだろう。
ほんとうは、3時間も空いてしまったら、大チャンスなのだから、もしきみが海辺の町で仕事をしているのだったら、ベーカリーによってクリーム・バンを買って、コーヒーのボトルをもって、海辺のベンチに歩いておりていって、ぼんやり海を見ているのが良いのです。
ずっと昔のことを考えて、ああ、あんなことあったなあ、と頭の奥のすみっこで曖昧な輪郭をなしている記憶を呼び起こす。
持っているクルマのサードギアがスムースに入らないのはなぜだろうと思う。
自分にはどんな伴侶が向いているのだろう。
SFって読んだことないけどおもしろいのかな。
文明人の特徴というべきか定義というべきかは、まさにこれであって、文明人で精神が健全なら「3時間」などは、そうやってぼんやりものごとを思い浮かべているだけであっというまに経ってしまう。
そうやって3時間を過ごせないで退屈してしまうひと、というのは、それだけ自分の中の文明が破壊されてしまっているのだと思います。
:引用終わり
出典:「時間を取り戻す」_経済篇 « ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日」
以上。