Sakak's Gadget Blog

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【SNS】Facebookでの交流から心が離れていくただ1つの理由

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■つぶやきは、自分で自分を認めること

Twitterをやった事がない人達には、Twitterが何者なのかってわからないだろうね。「1対 n(不特定多数)の人間関係」「壁に向かって喋ってる」くらいに思ってるはず。たぶんそうじゃなくて、出発点としては「1(自分)対1(自分)」なんじゃないかな。つぶやけた!という行為そのもので自分を肯定できる→自分を自分で認めてあげられる。その連続。

 

人は誰かに認められて、安心したい生き物である。それがネットを通して見ている「自分自身のつぶやき」であったとしても。「つぶやき」という形態をとっているけども、日記に近い側面も持つ。ライフログという言い方もできるね。

 

Facebookのつながりが何の上に成り立っているか?

これが、Facebookだと様子が変わってくる。

 

「自分を認められたい」という事よりも、「自分とつながっている事を認められたい」に変わる。

 

ここは個人差のある話になるが、私は「ネット上のつながり」を「知人/友人/同僚/同窓生/…」という、「リアル世界の上に成り立つもの」にしたくないんだよね。

 

興味/知識/知恵/経験/センス/価値観...」そういうものの上にネット上のつながりを作りたいわけ。もうそこは、私にとっては決定的なところ。

 

カンチガイしないでいただきたいのは、ネットとリアルと区別したい、という事ではない。自分の持っている価値観のようなものの上につながりを持たせたい、そこで交流したい、と言ってるだけ。自分の価値観の上に成り立っているネット上のスペースに、知人・友人がいたって構わない。

 

Facebookの全てを否定するわけじゃない。サービス仕様もアルゴリズムも悪くないとは思う。システム自身には今でも興味がある。ただ、Facebookのターゲット層が「知人/友人/同僚/同窓生/…」のつながりであるかぎり、私がそこでの交流に興味を抱くことはますます減っていくだろう。

 

Facebook上で、気軽にアンフォローできない空気も嫌だし、同じ価値観を持った人だけをリスト機能などを使ってフィルタしたりしてみたが、そろそろ限界。

 

今日、偶然読んでいたこちらの記事に書いてあったこの文章に激しく同意した。

人間関係のネットワークに関する研究を通じて、「強い絆」と称されるような自分に近い存在の人々よりも、「弱い絆」と称される関係性の薄い人々の方が、新たな情報をもたらしてくれる可能性が高いことが明らかになっている。

以上。