■手に入るものと失うもの
この記事が秀逸。面白おかしく読み進めていくと、最後のオチでガツンとやられる。
本文から引用:
”わたし
インターネットはしないことに決めたの
・・・だって、人が生きていくうえで大切な情報は
やっぱり目で見たり耳で直接聞いたりすることじゃない?
どんなに遠くの世界の情報を仕入れてきても
それを受け取るわたしたちの経験がからっぽじゃ
何の意味もなさないんだよ・・・・”
ここ数ヶ月、私自身がずっと考え続けてきたことが、この記事に書いてある気がする。
インターネット、ソーシャル・ネットワーク(TwitterやSNS)が発達し、手軽に様々な情報が手に入れられるようになった。他人の経験したものに簡単に触れられるようになった。
効率的になった。便利になった。それは間違いない。
ただ、その ソーシャル・ネットワーク に触れる時間が増大した結果、何かの時間が犠牲になっている。
失われた「何かの時間」にやろうとしていたものは、何だったのだろうか?
ソーシャル・ネットワークに費やす時間が大になったことは、我々自身に何をもたらすのだろうか?
自分達の子供が、幼い頃からソーシャル・ネットワークを使って友達とやりとりしまくる生活に浸るようになるとしたら、それで本当にいいだろうか?
■体験・経験に勝るものはない
高城剛氏は特に好きでも嫌いでもない。だが、このビデオから、何かを学ぶべきものはある。特に、4分35秒あたりから。ネットやソーシャル・ネットワークで、簡単に疑似体験できる時代だからこそ、その土地、その国における”体験、経験”の価値がより高まっていく。
彼の(世界を渡り歩くという)スケール感についていける人は、そう多くはない。それでも、自分の住んでいる街の中のことでもかまわない。その土地で、何かを体験する、経験するというものは、生きていくための糧になる。きっといつか、自分を助けることになる。
自分が、子供たちに何かを教えることがあるとすれば、体験・経験することをアシストすることだ。それしかない、と言っても過言ではない。ネットで見聞きしたことで「知った気になる」ことではない。
ネットにアクセスするツールの使い方なんて、教えなくても彼ら彼女らは使える。むしろ、ネットからでは得られないもの、ネットの情報を多用することで失うものを教えるべきだろう。
子供にそういうことを教えるべき親が、子供を公園で遊ばせながら、スマートフォンの画面ばかり眺めている場合ではない。
何かがおかしい。
ソーシャル・ネットワークが発達することの弊害については、プライバシーの問題はよく取り上げられるが、じつは、それと同じくらいか、もっと大きな問題が他にもあることを忘れてはいけない。
以上。