▼「知らない人をフォローすること」と独創性 « WIRED.jp
やっぱりそういうことなんだよな、と納得のエントリーだった(2010年10月付)。
(本文中の言葉を借りれば)私にとってのFacebookは、自分の友人たちでフォローリストがうまっており、自分の好きな時に顔を出せる、ゆるいホームパーティーのような空間だった。最初はそれでも楽しかったのだけど、いつしか退屈な気持ちに変わっていった。
ホームパーティは、たまにあるから良いのではないかな?毎日がホームパーティーな生活ってたいくつだよね。
なぜ窮屈な感じがするのか?
それは、誰も異論を唱えないから。同じものを見て似たようなコメントを発し、同調する。みなの視点が同じだから。私にはそれが退屈だった。そういう空間の中では独創的な発想が生まれないと感じた。
以下、エントリー中の引用。
このような「異論」の持つ力は、すなわち「驚き」の力にほかならない。間違った答えが大声で叫ばれるのを聞くこと、つまり、青が「緑」と言われるのを聞くショックによって、われわれはその色の持つ意味をもう一度考えてみるようになる。
その奇妙な回答を理解しようとして、問題を新しい視点から考え始める。その結果、青を空に安易に結びつけるといったわれわれの緊張感のない連想は、影を潜めるようになる。予期せぬものと出合うことで、人間の想像力が大きく広がったわけだ。
だからこそわれわれは、Twitterで見知らぬ人をフォローすべきなのだ。われわれは自然なままでは、お気に入りのブログや、自分とよく似た知人、同じような考えを持つ書き手を周りに集めることになる。それは、人生をより快適にするかもしれないが、より制限された思考にもつながるのだ。
人は無意識のうちに自分の考え方が正しいことを後押しする情報をネットで探し求め、そうでない情報は排除している。「俺はネットを使っているから多くの正しい情報に触れているぜ」と思ったらそれは大きなカンチガイだ。誰をフォローしているかで、見える世界がぜんぜん違ってくるからだ。
「触れている情報の量」が大事なのではなく「誰をフォローしているか」「何を見ているか」が大事なのだ。
本エントリーにあるように、見知らぬ人や自分とは視点の違う人、趣味の違う人など、できるだけ視点を変えた多くの情報に網をかけることが1つのテクニックなのだと思う。そして、最終的にそれらの情報から、自分自身で何が正しいかを判断すること。
Facebookという実名を前提とした既存の友人コミュニティは、ホームパーティのような心地よさはたしかにあるが、想像力を刺激しないという意味で、私がネットでやりたいことからは外れていった。
以上。
#追記 2012.12.22
▼異論を見たら、まず答え合わせ - 雪見、月見、花見。 ( )
雪見さんにご紹介いただきました。”異論が出た時に「どういう風に考えた結論なの?」と答え合わせができるかどうかが大事”という意見に私も同意です。