Sakak's Gadget Blog

商店街、街並み、旅先で出会った瞬間を夢中になって撮っています。名古屋。

【時事】影響力と想像力と共に生きるということ

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入店拒否騒動の乙武洋匡、「冷静さを欠いた」 反省するも「逆ギレしたのではない」 : J-CASTニュース

この騒動に便乗するっていうわけではないですが、私の考えたことを3つのワードで書きます。できるだけシンプルに。

 

■影響力

この想像の引き金になったのか、乙武氏のツイートですが、やはり彼のような影響力のある人が、店の名前を晒す(さらす)というのは、その1点だけはマズかったよな、と思います。情報リテラシーの話です。彼は「誰が正しいか、世に問う」とかなんとか、そういうつもりでツイートしたと自白されていますけども、そういう意味でも確信犯ですよね。自分の影響力(ツイッターのフォロワーの数とか)を完全に意識した上でやった行為ですよね。なんか、そのポイントはすごく残念でした。彼のことは、もっとクレバーな人だと思っていたので。

 

想像力

車椅子の人がこの騒動についてどう思うか、そこを早く知りたかったんだけど、そういう肝心の情報ってネットにすぐには出てこないのね。今日、やっと見つけました。こちらにリンクを貼っておきます。

障害者側からみる乙武氏入店拒否問題 - まるみえ星人の日記

障害者側からみる乙武氏入店拒否問題その2 - まるみえ星人の日記

 

まずは、この記事を読んでから、話を始めませんか?って言いたいんですよね。「外国では。。。」とか「差別を。。。」「人権問題として。。。」とか、そういう話が必ず先行するじゃないですか?どっちが悪くてどっちが正しい、みたいな争いって不毛だと思うんですよね。その前に「車椅子の方たちの気持ちって、想像できてますか?」っていう部分、すごく大事なところだと思うし。

 

私にも一人、事故で車椅子生活になった友人がいるのですが、(10年くらい前に)彼と出会ってはじめて知り得た感覚ってたくさんあったんですよ。理屈でわかっていると思い込んでいることが、いかに情報不足だったかと思い知らされました。感覚でしか気づけない、知り得ないことってたくさんありました。

 

家に遊びに行き、いっしょに飯を食い、ともに笑い、車でいっしょに外出して、お店をウロウロして、なんか、そうやって仲良くなっていく過程で、やっとはじめて、車椅子の生活をするっていう感覚を理解できたんだな、って私は思うんです。

 

車椅子を押したり、車椅子を車に載せたり、抱えて運んだり、そういうことをしたことが一度もないのに、どっちが悪い、どっちが良いみたいな議論って、なんか意味あるのかな?って思うんですよね。

 

想像力を働かせるっていうのはすごく大事なことだけど、パソコンをパチパチやりながら想像できることの限界があることも、理解しておく必要があると思う。知ったふりしてガーガー言う前に、まずは黙って、当事者(車椅子)の人やその家族や、逆に、一人で飲食店をきりもりしている人や、そういう人から話をしっかり聞いた上で、自分はどう思うのかっていうことを考える必要があるんじゃないかな。

 

何か騒動が起きると「すぐに声を出す」「すぐにつぶやく」「すぐに吐き出す」、その結果、なんかスッキリした気持ちになる?そんな人が多いみたいですね、今の世の中。しかも、自分の言葉に何の責任も追わずにね?

 

なんか、そういうやりとりは、もうお腹いっぱいなので私は興味ないんですよね。

 

■共に生きる

車椅子の方を特別扱いすることをゴールにするような話は私は違うと思うんですね。「全ての店にバリアフリーの装備を義務付ける」って、本当にそれでみんな幸せになれるでしょうか。

 

大事なことは、誰かを特別扱いすることではなくて、共に生きるってことじゃないですかね?車椅子を特別優遇し過ぎることでもないし、車椅子ではない人に特別に我慢を強いることでもないと思うんですよ。

 

車椅子の人も、そうでない人も、誰かが誰かを特別扱いしなくても暮らしていける社会が良い。もちろん、それにはモラルや意識を高める必要があるし、設備を整えたりもいりますよ。だけど、飲食店などに関しては、いろいろあって良いじゃないですか?すべての店がバリアフリーになっていなければダメですか?車椅子の人が連絡ナシでも入れるように全ての店が準備をしていないとダメですか?これは差別っていう意味じゃないですよ。いろんなことにこだわっている店が、いろいろあって良いじゃないですか?

 

車椅子で店の中まで入れることをゴールにしないとダメですか?それよりも、その家族ではなくても、お客さん同志で協力して、店の中まで抱きかかえて運んであげられることが自然にできる雰囲気の方がステキじゃないですか?そういう国を目指したらダメですか?そういう国になるのはどうすれば良いかを考えたらダメですか?

 

サービスを提供する人(お店の人)はお客の言うことを全部聞かないとダメですか?お客が上で、お店の人は下ですか?私は絶対に違うと思う。上も下もない。上か下かと分けている人こそが、ゴールを見誤り、どっちが悪いかの不毛な議論をしている人だ。

 

共に生きるということは、車椅子の人も、そうでない人も、お店の人も、お客も、みんなで同じゴールに向かって生きていくことなんだよなあ、と思う。

 

以上。