Sakak's Gadget Blog

商店街、街並み、旅先で出会った瞬間を夢中になって撮っています。名古屋。

【ブログ論】他人に預けた自分の評価以外に自分を支えるものがあるか

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自分の評価を他人に預けすぎるとどうなるか

過去に多くのはてブが付いたhase0831さんの記事ですが、久しぶりに読み返した時に「おや?」と思ったことがあったので、紹介させていただきます。

hase0831さん(女性)が、男性との出会いを求めて過去にいろいろトライしてみたのだけどダメで、諦めかけた頃に、近所の汚い飲み屋で隣り合ったことがキッカケで知り合ったのが今の夫です、という話を書かれています。その直後のセンテンスになります。

「わたしは選ばれない」という絶望と、その対応策 - インターネットの備忘録 

気付いたこと

何が言いたいかというと、いろんな手段を試してみて(たぶんその過程でいろんな人を無意識に傷つけたり礼を失したりしているとは思うのですが)、マジで自分どうするの?どうしたいの?どうしたらいいの?と考え続けていたとき、「自分の評価を他人に預けすぎるのは良くない」という、当たり前のことに気付きました。

相手が自分を選ばなくても、自分の価値は何ら毀損されないんです。

同時に、自分だって相手のことを選んで、切り捨てたり、見つけたりしているんだから、自分が同じことをされたからといって傷付く必要はないんだということ。

しかもそういう相手にどうやったら出会えるかって必勝法は全然なくって、正直くじ引きみたいなもので、たくさん回数を引くほうが当たりには近付ける。だったら自分に「イエス」を言ってくれる相手に出会えるまで、何度でもクジを引き続ければいいんだと思えました。

100回「ノー」を言われたとしても、最後に1回「イエス」って言ってもらえれば、それでいいんです。

これを読んでいて思ったのは、ブログと似てるなあ、と。いや、ほぼ同じじゃねーのかな、と。「自分だって相手のことを選んでるじゃねーか」ってところもグサリときたり。

 

ブログもツイッターもSNSも何でもそうなんですけど、ネットという場所に自分が創りだしたものを出すということは「自分の評価を他人にしてもらう」という機能が標準装備だと思うのですよね。でも、評価してもらうことばかりを気にしてしまうと、そもそも「自分が創りだしたかったもの」よりも「評価されやすいもの」に傾いてしまう。その傾きを、時々修正・補正する必要があるのかな、と。ブログって、単純なようで、けっこうセンシティブな遊びなんだと思うんですよね。そこが魅力でもあるんだけど。

 

この引用の中に出てくる「自分の評価を他人に預けすぎるのは良くない」っていうのは、ときどき思い出したい好きなフレーズです。普通にブログサービスを使っていると、どうしても「自分の評価を他人に預ける」ほうに傾いていくと思うから。「誰かが自分を選ばなくても、自分の価値は何ら毀損されない」、これもそのとおり。自分自身でつける自分の評価を、もっと大切に考えてもいいんじゃないかなあ、と思うのです。自分が感じる、「創りだした瞬間の気持ち良さ」の評価をもっと上げてもいいのではないかな、と。

 

もちろん、人の声に耳を傾けないという意味ではないです。自分以外の誰かに与えてもらう刺激(例えばコメントとか)というのは非常にありがたいものだし、自分が成長できるヒントを貰えることが多いです。そのためにブログなり、ネットサービスを使っていると言っても過言ではないですからね。ただ、自分の価値を他人に全て預けてしまうことで、自分のやりたかったことがブレてきて、その結果、「何のためにブログをやってたんだっけ?」ってなりますよね。ブログを続けていくということは、「自分のやりたいこと」と「人に評価されること」が両極にあり、どこでバランスを取るかのスライドバーを、適宜、調整していくことなんだろうなあ、と思います。

 

それでも、ブログを続けたい。「100回「ノー」って言われても、最後に1回「イエス」って言ってもらえればそれでいい」ってのも、ブログを続ける上での気持ちの持ち方に通じるのではないかと思っています。

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自分自身だけで完結する嬉しさ要素を持っているか

上の話を考えていた時に、ちょうど、この微炭酸さん(id:bitansan_com)の記事を読みました。上の章に私が「創りだした瞬間の気持ち良さ」と書きましたが、まさに、その具体的な例が書かれていると思います。

▼書くごとに自分の感情と語彙の一致率があがってくのが快感です - 微炭酸の日々

前回の記事を勢いと感情のままに書いたらすごいスカっとして快感でした。

出し切ったぜ!みたいな。

読み返したら重複してる表現とかいろいろ未熟なところはあるんだけど、自分のリアルタイムの感情と書き言葉の語彙の一致率が上がってきてる感じがして(当社比ですけど)すごく嬉しかった

たぶんブログとか文章書く人って承認欲求以上にこの自分の思ったことを文字で置換しきったって快感がやめられなくて書いてるんじゃないかなあ。

まさに、この引用の部分です。他人にどう評価されたかではなくて。ブログの記事を書いている最中に「感情と書き言葉の語彙の一致率が上がって嬉しかった」とありますよね。創りだすこと、創りだした結果、その瞬間に嬉しいという感情の動きがあるということ。これはブログを続けていく上ですごく大事だと思います。「他人にどう評価されたか」ではない、自分自身だけで完結する嬉しさ要素です。

まとめると

ブログという遊びを続けていくために必要な要素は「他人に良い評価をもらい続ける」ことではなく、他人に評価をもらうこと以外に「自分自身だけで完結する嬉しさ要素を(いくつか)持っている」ってことではないかと、私は思ってます。その「自分自身だけで完結する嬉しさ要素」が、最終的に、ブログを続けていく自分を支えてくれると思うから。

 

以上。

夏の写真2013〈ひと夏の思い出をブログに残そう〉