久しぶりに、瀬戸市の銀座通り商店街・末広商店街に行ってきた。アーケードの改修工事で雰囲気が大幅に変わったように感じた。今、目の前にある景色は、永遠に続くとは限らない。だからこそ、自分が惹かれたその景色を写真に残すんだって話を書こうと思う。
私が感じていた美しさが取り外された
大好きで、よく通っていた銀座通り商店街・末広商店街は、老朽化のためアーケードの改修工事を行っていた。今日、工事後初めて行ってみた。
だいぶ雰囲気が変わるのではないかと個人的に心配していた。どう変わったか、ちょっと写真を見てほしい。「改修工事後」は、今日見た景色です。
▼銀座通り商店街 改修工事前
▼銀座通り商店街 改修工事後
看板が撤去されていた。「銀座通り商店街」のフォントを変更。アーケード天井のシャンデリア(?)も撤去。LED照明か何かに切り替えたのだろうか?全体的にスッキリはしたけれど・・・
▼銀座通り商店街 改修工事前
▼銀座通り商店街 改修工事後
店ごとに取り付けられていた、味のある看板も撤去。アーケードの補強材の「赤色」がやけに目立つカラーリングに・・・
▼末広商店街 改修工事前
▼末広商店街 改修工事後
オリジナルの照明器具は撤去。補強材はこちらも明るい「緑色」に・・・
工事前、工事後、どう見えますか?
私は、この商店街に惚れていたアイテムが減ってしまったと感じました。
ただ、この件については私がとやかく言える立場にはないことは重々承知です。私はこの商店街が好きな、ただのファンの1人です。この商店街で店をやっているわけでもないし、改修工事に寄付をしているわけでもない。だから、何にも言えない。それはわかっている。
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「老朽化した設備を撤去する」「お金にゆとりはない」というのが工事の条件であったとしたら、こういう結果になったのはしょうがないと思います。
ただ、この商店街の良さ、もっといえば、私が感じた「美しさ」も取り外された。そう感じたのは私の趣味・嗜好とか感性によるものだから、瀬戸市民の方や、商店街で働く人達は違うのかもしれない。私だけがおかしいのかもしれない。
地方の商店街の実情をよく表している結果なのかもしれません。これが京都の街の中にある商店街だったら、同じ結果にはなっていないと思うので。
その場所にとって「もっとも大切なもの」を何に設定するか。すごく大事なことだと思います。それを決めるのはもちろんその商店街を運営している方々です。その方々が「この商店街にもっとも大切なこと」と、私が勝手に考えていた「この商店街にもっとも大切なこと」とが違っていた、という事実が残念でなりません。
老朽化していくもの
他にも似たような話があります。コンクリート石像です。修復工事、再生工事を経て石像たちは生まれ変わります。どちらが好きか、そもそも工事をやることについて賛否両論あると思います。石像の捉え方が人それぞれ、立場によって違うので。
桃太郎神社 修復前(イメージ)
桃太郎神社 修復後(イメージ)
個人的には、修復前の石像の方が美しいと感じます。他を圧倒する魅力を感じます。他にはない強烈なインパクトとともに。
ただし、老朽化していくものを、勝手に「美しい」と感じているその「身勝手な美しさ」は、いつか消える時がくるとも思うんです。それを「残念だ」とか「寂しい」とかは心の中にとどめていればいいんだ、と。
それに、この朽ち果てそうになっている石像を再生することは、延命措置を施すことであり、身勝手な美しさを主張するということは、延命措置をしないということに匹敵するわけですしね。石像にかかわる立場によって、考え方がまったく変わるでしょう。
この石像を所有者・管理している方、石像作家のご遺族の意向、コンクリート石像の良さを多くの人に知ってもらおうと活動されている方の考えなどが、最終的にどうするかを決めるべきだし、あくまでも見ているだけの外野は何も言えることはありません。
この定光寺駅の千歳楼(跡)の風景だって、いつ解体されて無くなってもおかしくない。これも、私が個人的に(身勝手に)美しさを感じている物件であり、今、見ておかなければ明日はもうないかもしれないと思っています。いつか、無くなる日が来ます。
だから私は写真を撮る
自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、じつはまだ答えがハッキリ出ていない部分もあります。これから写真を撮り続けながら、自分の気持ちにきちんと向き合っていこうと思っています。身勝手に感じている美しさだけを主張することはダメだと思うし。
そうなった時に、私にできることはただひとつだけ。今、目の前にある美しいと感じたこの風景を、写真に撮って残すことなんですよね。美しいと感じたものを、その瞬間に、この手で撮りきり、残していこうと思っています。自分のために。
銀座通り商店街・末広商店街だって、美しいと感じたから今までたくさんの写真を撮ってきました。だから、そのカタチが変わったとしても、後悔はありません。少し寂しさはありますけどね。
以上。