■ある一定の役割とは?
Facebookを使うことで「リアル社会の友人、知人、同窓生やサークル仲間が、どんな趣味で、何を考え、どんなふうに過ごしているか」を私は知ることができた。今まで楽しめたのも事実。これがFacebookの役割だったとすれば、役割を果たしたと言えるだろう。
Facebookの便利なところも見つかった。実名のアカウントというのは、個人を特定するのには便利だ(メールアドレスと違い、変わる可能性が少ないから)。よってFacebookは、今後、私にとっては「デラックスな連絡帳」として存在し続けるだろう。サービスが続く限りは。
ただし、年賀状は1年に1度であるように、連絡帳を開けるのも必要な時だけでいい。Facebookを通して日常的に得られるエクスペリエンスは、私の期待するものではなかった。そういう意味で、私にとっては、Facebookは「ある一定の役割を終えた」と思っている。
■Facebookとつながっている人たちと交流がしたくないのか?
違う。交流の仕方がイヤなだけ。
つながりたい人とは、個別に、あるいは、特定の数人でつながっていられればいい。メールに逆戻りはしたくないが、メールよりもっと軽くて便利でクールな仕組みが他にいくらでもあるから。
例えば「LINE/Twitter/...」。必要な時に、メッセンジャーアプリなどで、話をしたい人とだけ、すればいいんじゃないかな。
Facebookは、そこで繋がっているすべての人を「背負い込む」重さが苦手だ。いつもいつも、メガフォンをつけて内緒話をしている感じも、どことなく気持ち悪い。いくら友人、知人であっても、そんなにいつも、多面的に見ていたい、見られたいとは思わない。
自分のことを見たいかどうか関係なく、「(半強制的に)自分を見せている」という状況が嫌なんだ。Twitterだと、嫌になればアンフォローできるでしょ?Facebookだと(現実的な話で)アンフォローを気楽にできないでしょ?
たぶん、Facebookという仕組みの、人と人との距離感の取り方(間合い)が、私には「近すぎる」と感じることが決定的な要因なんだと思う。
■Facebookが考えた理想と現実
ネット上のつき合いに、「馴れ合い」も「見栄」も持ち込みたくない。でも、そういう影がどうしても見えてくる。距離が近すぎるから。本音で語れる・語りたいから、ネットにいるのに。
Facebookにおける「実名交流により、リアルな人間関係をネット上で構築する」というチャレンジそのものは、評価に値すると思う。
だが、そのチャレンジの結果、「実名さえ名乗れば、リアルな人間関係で繋がっている者同士はうまくやれる」という理想は、私には現実とは大きく異なるものだった。
以上。
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