子供の頃からこんなにパンが好きだったわけではない。おそらく4,5年前からかな。妻がパンを食べるのも作るのも好きで、私はその付き合いで(週末になると)パン屋巡りをしていた。いつの間にか私はすっかりパン好きになった。こんな感じで、愛知・岐阜・三重県の人気店、話題の店のパンは、だいたい食べた。
どの雑誌を見ても紹介されているようなパン屋は、フランスのパン職人だったり、事業として成功していて資金力が豊富にあったり。たしかにパン自体も美味しいし、パンの種類も豊富だし、新作も季節ごとに出てくるし、文句のつけようがない。それは事実。
ただ、かなりいろんなパンを食べてみて、最近の私がハマっているのは、じつは、「ふつうのパン」だったりする。
上の写真が、お昼に食べた地元の手づくりパン屋さんのもの。老夫婦がお店を営んでいて、お昼時になると会社の食堂にパンを持ち込んで、手売りしてくれる。上の写真はお気に入りの「クリームパン」と「フィッシュサンド」。これがめちゃくちゃウマい。特にクリームパンのカスタードが大好き。このクリームパンとサンドイッチで400円出してお釣りがくる。
「作った人の顔がわかる」「作った人から分けてもらえる」というのは素敵だと思う。そういうものは、味覚で感じるもの以上に美味しさを感じる。
おふくろの味や、家族が作ってくれる味が美味しいと感じるのも、味覚で感じる美味しさ以上の「何か」がある。「食べるためのプロセスを楽しめる」こともあるし、「作った人の顔がわかる」という安心感が、美味しさに良い影響を与えている気がしてならない。
今日、パンを買ってお金を払う時に(私は)「いつもこのクリームパンを買っちゃうんですよ。すごく好きなので。美味しいです!」と伝えた。奥さんが「ありがとうございます」とニッコリ笑顔で答えてくれた。となりで、そのパンを作ったご主人が微笑んでいた。
コンビニ全盛の時代。便利だから私も週に何度も使う。ただ、そういう時代になればなるほど、作った人の顔がわかるものを口にした時に、その美味しさを実感することになる。
我々は便利で豊かな暮らしをすでに手にしている。それでも、これから我々が向かうべきは「より便利で豊かな暮らし」なのか?それで良いのだろうか?
人と人とのつながりを実感したいという欲求が、じつはみなの心の中に潜在的にあるのかもしれない。ただ、そういうものが「便利で豊か」という言葉にかき消されてしまうのかもしれない。
最近は、この「便利で豊か」という言葉がやけにひっかかっている。
それにしても、このクリームパンはうまい(苦笑)。
以上。