歴史上には一切名を残していないが、浅野祥雲という偉大なコンクリート石像作家がいた(1891年-1987年)。
彼の作り出した石像の魅力に取り憑かれ、片っ端から散策したくなるという「浅野祥雲スイッチ」というものがある(私が命名した)。そんなスイッチがONになった人をたくさん知っている。私もそのひとりだ。
私の中で、その浅野祥雲スイッチがいつ入ったのかを少し思い返してみた。じつは、それほど前じゃない。そのスイッチが入った結果、最終的にどうなったのか、何を感じたか。
◆はじめての五色園
私が初めて五色園(浅野祥雲の三大聖地の一つ)を訪れたのは23年前、1991年。その数年後、個人ホームページを立ち上げて、その中のあるコーナーにて五色園を記事で紹介したのが18年前、1996年。この時点で、私はまだ、浅野祥雲という名前にたどりつけていなかった。
◆10年以上ぶりの五色園
月日は流れて、昨年(2013年)の夏。
はてなブログにて、定光寺界隈の廃墟や石像をウオッチしていた頃だ。五色園のコンクリート石像のその後が気になって、子供を連れて出かけてみることにした。この石像を作ったのが「浅野祥雲」という人物であることは、ネットで調べれば簡単にわかる時代になっていた。
それでもまだ、私の浅野祥雲スイッチは入らなかった。
久しぶりに対面した石像たちは、補修作業で艶やかに塗り直されていた。「懐かしい」というよりも「生まれ変わった石像との初対面」というのが率直な感想だった。気持ちを収めるのに少々時間がかかり、すぐにブログの記事を書くことができなかった程だった。
◆はじめての桃太郎神社
そして、2014年1月。気持ちが吹っ切れたところで、桃太郎神社に初参戦。
宝物館の猿や犬やキジにやられました。スイッチがココで入ってもおかしくないくらいに。もう、ギリギリのところまで来ました。
浅野祥雲の石像の魅力が圧倒的であることは、桃太郎神社であらためて強く感じました。スイッチがONになるのは時間の問題でした。
◆はじめての岩崎御嶽山で、ついにスイッチが入る
2014年の2月初旬。雨の日でした。妖気漂うこの場所で、浅野祥雲の手で作られたであろう石像群を目の当たりにして、私の中でスイッチが完全にONになりました。
▼【石像】ここはコンクリ石像の宝庫?岩崎御嶽社(愛知県日進市)~Part1~
▼【石像】ここはコンクリ石像の宝庫?岩崎御嶽社(愛知県日進市)~Part2~
今、振り返ってみてもここの妖気はハンパないです。「浅野祥雲のスポットでどこが一番お気に入りですか?」って聞かれたら、私は真っ先にここを上げることになると思います。
三大聖地(五色園、桃太郎神社、関ヶ原ウォーランド)が一部観光地化し、石像自身も再生され、より親しみやすく・よりわかりやすくなっていくのとは対照的に、岩崎御嶽山はまだまだ解明されていない謎が多く残されている。
数ある浅野祥雲石像スポットの中で、今、一番ホットだと言っても過言ではないです。また近々、行ってみようかと思っています。
◆何かに取り憑かれたように石像を巡った2ヶ月間
浅野祥雲スイッチが入った後、2014年の2月~3月は、毎週末、浅野祥雲の石像を追い求めて出かけて行きました。
尾張旭の厄除弘法大師、緑区の姥子山立弘法、犬山成田山、春日井駅前弘法、熱田区の秋葉山円通寺、北区の久国寺、港区の番割観音堂、南知多の中之院軍人墓地、最終的に、静岡まで遠征して熱海城まで行きました。
ここまでを2ヶ月間弱で回りました。まるで何かに取り憑かれたように。今振り返ると、岩崎御嶽山で本当に取り憑かれたのではないかと思っています。全く後悔はしていません。やりきった感で私の心はとても満たされたので。
◆一連の流れで気づいた「夢中になれるものを続けることで得られる何か」
この2ヶ月間で浅野祥雲の石像を巡っている間、ブログのアクセスや注目度は落ちていたと思います。そんな実感はありました。読んでくれている方たちのリアクションも少なくなり・・・。
ただ、それでも私は浅野祥雲石像巡りをやめる気にはならなかった。誰かのためといいうより、自分のためを一番に考えて動いていたし、そうしたいと思ったから。
誰がなんと言おうと「自分が夢中になれるものを続けることで得られる何か」はきっとあると思う。
自分が夢中になれるものを続けた結果、出会えるはずのない人に出会い、いろんな嬉しいハプニングがおきて、自分の周りの環境が少しづつ変化してきた。そういうことを今年はたくさん実感できました。
次は何のスイッチが入るのかなって思うと、ワクワクします。スイッチが入りやすいように、自分のアンテナを磨いて、感度を高くしておこうと思います。
◆関連記事
・石像マップ(訪れた場所をマップにしました)
以上です。