根拠のない自信
1990年代の中頃から、趣味でインターネットに記事を書くことを始めた。
自分が若かった(20代半ば)からなのか、自分の考えたことに「根拠のない自信」があって、頭に思いつくことを、どんどん書いて、次から次へとアップしていた。3年、4年続けたかな。とにかく、他に何をしてたかなんてまったく記憶がないくらいにどっぷりやっていたと思う。
今思うと、本当にすげえなって思う。何がすげえかというと、その「根拠のない自信」を持っていたことが。自分に見えている世界が、他の人にも見えている世界だと思っていた。思い込んでいた。自分の強さも弱さも、自分のことは、自分がだいたいわかっていると思っていた。
自分がカッコ良いと思ったことは、みんなもそう思ってるんだと信じていた。なんだ、このうぬぼれ野郎は、って感じだ。
本当は、自分に見えていない世界のほうが圧倒的に広かったのに。自分のことすら自分で気付けていなかったのに。本当は、私のことを誰よりも思ってくれていた仲間が近くにいたはずなのに。仲間が離れていく時に私は追いかけなかった。あの頃は視野がとてつもなく狭かった。
自分に見えていない世界への意識
あれからあと数年で、もう20年になる。今の私は少しは変わったのかな。
一口で言えば、「自分の考えは間違っていない」という「根拠のない自信」は無くなった。だからブログを書いた後も、いろんな躊躇い(ためらい)がある。書いた記事のことについて、間違っていないか?考えが足りているか?もっと他に私が見えていないところはないか?そもそも読んでくれる人はいるか?とか。
自分に見えている世界で物事を必死に考えると同時に、自分に見えていない世界のことも、常に意識するようになったから、だから余計にそう不安に思うのかもしれない。
「自分に見えている世界」という前提が崩れれば、私の考えや判断が変わるからね。見えていないところは必死に想像するんだけど、その想像力が足りていないかもしれないし。
今は正しくなくていい
でも、「自分に見えている世界が全てじゃない」ことに気づけたのも、ネットでブログを続けてきたから、なんだよね。
だから、一生懸命いろいろ書いた記事が、例えその先に「正しくない」とか「間違っていた」とか「考えが足りなかった」とか、そういうことがあったとしても、その記事を書いたことに意味はあると思っているんですよね。
もし、これからブログを書こうとしている人や、書くことに少し迷っている方がいたら、私がかけてあげたい言葉があるとしたら「今は正しくなくていい」ってことを伝えたいですね。
個人でブログを書いている人が、たった1つの記事だけで、絶対的な正しさを要求されることなんてないんですよ。気にしなくていいと思う。続けることで、自分に見えている世界が広がっていく。そうすると、判断や考えが変わっていくことだってある。それでいいんじゃないかな?これがブログというメディアの面白いところでもあり、魅力でもあると思う。
1つの記事ではなく、記事群として見て欲しい
雪見さん(id:snowy_moon)のこの記事で、はてなブックマークのことも考えた。はてなブックマークは「1つの記事」をすくい上げて、それを不特定多数の人が評価し合う仕組み。良くも悪くも。
だけど、ブログって、1つの記事として存在しているというよりも「一連の記事群」なんだと思うんですね。ブログを書いている立場の者としては、”固まり”としての意味を尊重したいんです。しかも、日々、その記事群のなかで、考え方も判断も少しづつ変わっていく。成長していく。人が生きていくのと同じように、ブログ自身もそのなかで前に進んでいる。成長している。
だから、本来、評価するべきなのは(評価してほしいのは)、記事群として評価してほしいと思うし、じゃあ、その実態は何なんだってなると、「書いている人」で見て欲しいってことなんですよね。
おわりに
自分に見えている世界が世界の全てじゃない。だから、そこは謙虚であるべきだと思う。だけど、全てが見えるまでブログは書けないというわけじゃなくて、今、見えている世界の中で一生懸命考えて、書けば良いのだと思う。ブログを書きながら、周りのブログ仲間と影響し合いながら、世界が広がっていき、考え方も変わっていって、それでいいじゃない。そう思ってます。
以上。