Sakak's Gadget Blog

写真をきっかけに、人生や仕事、書くことについて考えたことを書いています。名古屋。

シャッターの向こうに残る、バスケと体育館の時間

趣味で週末にバスケを続けて、気づけばもう23年になります。

もともとは「バスケをする」という行為が先にあり、写真は後からついてきた趣味でした。先日、久しぶりにカメラを手に取ったことをきっかけに、これまでに撮りためてきたバスケや体育館の写真を整理してみたのです。

あらためて見返してみると、そこには実に「絵になる」シーンが溢れていました。私はスポーツ写真の専門家ではないので、決定的瞬間を狙って動きをピタッと止めるような撮り方はしません。ただ、その場の空気に身を任せて、シャッターを切っているだけです。

躍動するプレイそのものはもちろんですが、それ以上に心を惹かれたのは、その前後の何気ない時間でした。 練習前の静かな体育館に漂う、独特のワックスの匂い。バッシュが床と擦れて響く、あの乾いた「キュッ」という高い音。淡々とシュート練習に励むひととき、ボールが網を通り抜ける「シュパッ」という手応え。

そうした断片的な記憶が、体育館という場所が持つ質感や立体感、独特の空気感とともに写真の中に閉じ録められていました。それらが驚くほど魅力的に写っていることに、数年越しに気づかされたのです。

見上げる視点、プレイヤーの眼差し

バスケの写真というと、多くの場合は観客席から見下ろす俯瞰の視点が一般的です。応援する側の目線で、コート全体を捉える構図。けれど、私の撮る写真は少し違います。私は観客ではなく、そこに立つプレイヤーだからです。

私の写真は、基本的に「見上げる構図」になります。高い天井が写り込み、選手を真下や真横といった至近距離から捉えたカットも多い。体育館の床から広角で天井を仰ぎ見たり、逆に望遠レンズで、床越しに対面の窓とプレイヤーの影を切り取ったり。

それは意図して作った表現というより、その場に立っている人間の視線が、自然と形になったもの。ディフェンスの指先越しに見るゴールや、リバウンドを待つ瞬間の視界。結果として、世の中に溢れるスポーツ写真とは少し毛色の違うものになっているのかもしれません。だからこそ、そこに自分の個性が少しだけ滲み出ているのかなと、今は思っています。

コートに流れる、家族の記録

そして、写真を整理していて改めて気づかされたことがもう一つあります。 私にとってバスケは、家族とともに歩んできた時間でもありました。かつての写真の中には、まだ生まれたばかりだった子供の姿も写り込んでいます。このコートには、家族の時間が絶え間なく流れていたのです。

バスケの写真を振り返ることは、いつの間にか、家族との日々を振り返ることに繋がり、最後には自分の人生そのものを振り返ることになりました。サイドラインで遊んでいた子が、いつしかボールを追いかけ、共に汗を流すようになる。その軌跡は、私にとってかけがえのない宝物です。

誰かがいつか、戻ってこられるように

こうした23年の積み重ね、「継続」という時間の重みを噛み締めていた矢先、実は今日、それを実感する嬉しい出来事がありました。

かつて一緒にバスケをしていた仲間が、約6年ぶりにふらっと顔を出してくれたのです。コロナ禍で足が遠のいていた彼と、最近たまたま言葉を交わす機会があり、声をかけてみたのがきっかけでした。

6年という歳月を埋めるような野暮な質問はせず、ただ以前のようにプレイする。その時間は、私にある確信をくれました。「誰かがいつでも戻ってこられる場所を、自分が生かし続けること」。その大切さを、彼とのパス回しが教えてくれた気がします。

結び:記憶の温度

10年、15年以上前の写真であっても、どこの体育館で、誰と、どんな雰囲気で過ごしたかが鮮明に蘇ります。写真に写っているのは視覚的な情報だけなのに、記憶として呼び起こされるのは、肌で感じた温度や湿度、そしてあの体育館特有の匂い。

バスケは、プレイだけで完結するものではありません。その場に集まった仲間と、体育館という空間、それらに流れていた時間。そのすべてが混ざり合って、かけがえのない思い出になっていくのだと感じています。

自分がシャッターを切り続け、コートに立ち続けてきた意味。それは、いつか誰かが戻ってきたときに、そこにある「場所」の温度を、変わらずに保ち続けておくことだったのだと、今は思っています。

ケイスケ